失楽ユータナジー - 2/11

『――結局お前はそこから出るつもりなんか無いんだろ』
 誰かが吐き捨てるように言った。
 開け放った扉を背にした相手の顔は、逆光で暗い影に覆われていたけれど、よく見知った誰かのような気がした。
 その肩の向こうに、青い空が見えた。陽の日差しが眩しくて、目を細める。
『待ってたら誰かが都合良く助けてくれると思ってんのか』
 違うそうじゃない、と叫んだ。
 つもりだったのに、

 ……何か遠い昔の夢を見ていたような気がした。
 明良がうっすらと目を開けた時、最初に映ったのは、玄関を入ってすぐの廊下の床だった。
 見覚えがあるのに、そこがどこか分からない、そんな気がするフローリングの床と白い壁紙を見つめ、暫くぼんやりしていた。
 近くで物音がしていた。ガサガサ、ゴトゴト、何かを探し回るような音だ。

(誰……とうさん? 何を探してる)

 ワーカホリックで家の中の事は万事母任せだった父は、母の死後、家の中にどこに何があるのか分からず、しょっちゅう箪笥や戸棚をひっくり返して探していた。
 けれども、父は田舎に帰ってしまった。今は誰も家には居ない。――と記憶が繋がって。意識が急速に明瞭になった。

 家の前で何者かに襲われた、とパッと飛び起き――たつもりが、無様に横転して床に頭を打ち付けてもがいただけだった。
 眩暈がして、視界に白黒の渦が巻く。後頭部に鈍痛がするだけでなく、頭の芯が軋んでいる。手足もあちこち痛い気がする。

 咄嗟に声を上げようとして、口が開かないことに気付いた。顔面の皮膚が強ばっているのは、どうやらガムテープで口を塞がれているからだと分かった。
 何よりショックなのは、両足の脛から足首がガムテープでぐるぐる巻きにされて、全く身動きが取れないことだった。
 のみならず、両の親指が何か細く固い結束具のようなもので一まとめに括られていて、両手の自由も効かなかった。これでは立って歩くどころか、這って逃げることもできない。

(何だ、何なんだ。誰だ。誰がいるんだ)

 過呼吸気味に浅い呼吸を繰り返し、自由になる首を回して明良は辺りを見回した。
 パニックが徐々に高まっていくなか、突然その男が視界に入ってきた。

「気がつきました?」

 見覚えのない、若い男だった。
 不自然なほど明るい笑顔を浮かべて、明良の顔を覗き込む。
 甘めの顔立ちに切れ長の涼しげな目、明るい色合いの直毛が、如何にも女性が好みそうな、誠実を絵に描いたようなイケメンだと思った。
 おそらく二十歳過ぎ、ポロシャツとジーパンがよく似合う。明良より5歳から10歳ほどは若い。まだ学生だろうか、社会人には見えなかった。
 そんな若いイケメンが、自分に暴力を振って押し込み強盗を働いている。
 恐怖と理不尽さと依然続く頭痛に、頭が飽和を起こした明良は、ただ呆然と若い青年を見上げることしかできなかった。

真田さなだ 明良あきらさん……ですよね?」

 男は床に転がったままの明良の横に跪いた。

(何で俺の名前を知っているんだ)

 ギョッとして思わず目を見開いた。
 男は視線から明良の疑問を読み取ったのか、にこやかに微笑み、「調べましたから」と答えた。

「ずっと探していたんです。明良さんみたいな人。独りぼっちで、何日も姿を見せなくても誰も怪しまない。中で何をしても気付かれないくらい広い家に住んでいて、干渉される気遣いはない。
 あなたはやっと見つけた、僕の理想の人です」

 明良が熱烈な告白の意味を取りかねて惚けている間に、青年は熱の籠もった眼差しを明良の胴体に移し、恭しい手つきでTシャツの裾を捲り上げた。
 明良は、男の手に鋏があることに気付き、ギクリと身を強張らせた。
 青年は端正な顔に笑みを貼り付けたまま、躊躇いもなくTシャツを切り裂いていった。
 運動不足の弛んだ腹が露わになった。高校時代にバスケ部だった頃の精悍さの面影は、殆ど残っていない。
 無駄毛の多い、ざらついた肌を、大きな掌が滑らかに撫でていく。

(……! やめろ! 触るな!!)

 制止の叫びは心の中だけに響いた。恐怖に萎縮した身体が、ほんの僅か身じろぐ。
 胸に辿り着いた形の良い指先が、半ば埋もれた小さな粒をキュッと抓んだ。

 封じられた唇の奥で、ハッと息を呑んだ。
 身体が震え出した。重い塊が鳩尾に巣くって息苦しい。

「ああ……本当に夢みたいだ。これからいくらでも、何をしても良いなんて!」

 青年は端正な顔を上気させ、恍惚とした声音で呟く。その間も、欲望の確かさを秘めて、両手は明良の脇腹や腰を這った。
 そして、思い出したように鋏を走らせては、まとった衣服をボロ布に変えていく。
 明良は顔を背け、ぎゅっと目を閉じた。ヒクヒクと痙攣する睫毛の先に、見る見るうちに水滴が溜まり始めた。