失楽ユータナジー - 1/11

 真夜中すぎだというのに、夜の大気はどこか生ぬるい。
 街灯の明かりが不穏に瞬いて、光の領域が退き、不意に闇が忍び寄る。
 誰かが後ろを歩いているような気配を感じて、明良あきらの心臓がどきりと鳴った。
 真夜中の住宅街、終電の時刻はとうに過ぎ、始発にはまだまだ遠い。真っ当な人間の出歩く時間ではない。

(近所の人に会いたくないから、こんな時間にわざわざ家から離れたコンビニに行ったのに)

 動悸の激しくなる心臓の辺りのTシャツを無意識にぐっと掴む。
 背中に、暑さの所為ばかりでない、嫌な汗がじっとりと噴き出してきた。

 明良の家は、閑静な住宅街にある。
 その辺りは所謂高級住宅街で、小綺麗な庭付き住宅が趣味良く建ち並んでいる。
 当然ながら夜中出歩く人間など殆どいない。
 どうかうちの近所ではありませんように、途中の道で逸れてくれと念じながら、足早に家路を急ぐ。
 後ろを振り返るなんてことはしない。相手の姿を確かめると言うことは、自分の顔も相手に見せることに他ならないからだ。

 不審人物が後を付けてきているかも、などという妄想は、無精髭の生えた、だらしない30過ぎのオッサンという自分の姿を考えれば、自意識過剰の絵空事。
 それよりは、顔見知りに自分の姿を見られる方が、遙かに恐ろしかった。
 出歩かない所為で鈍りきった両足の許す限り素早く動かすと、左手にぶら下げた缶チューハイとつまみのチータラを入れたレジ袋が、ガサガサと煩く鳴った。

 気のせいだったのか、それとも曲がり角を曲がって別の方向に行ったのか、暫くすると気配は消えていた。
 胸をなで下ろし、じっとりと汗の滲んだ手のひらを、色あせた紺のハーフパンツに擦りつけて拭った。
 現金なもので、安全と分かると途端に気が大きくなり、前期放映のお気に入りのアニメ主題歌をハミングし始めた。
 先ほどの気配は、他人の目を恐れるあまりの杞憂だったと思えてきた。

 

 明良は所謂ニートだ。
 高校を卒業してから30を過ぎた今現在まで、一度も就職したことがない。
 しようとしたことはあるが、どうしても人に会うのが恐ろしくて、面接に行けなくてダメだったのだ。
 母は早くに病死し、一流企業を退職した父は老いた母親(明良から見れば祖母に当たる)の介護の為に郷里に帰った。仲の良くない兄は大学入学とともに家を出て、殆ど実家に寄りつかない。
 建て売りながらオープンキッチンに広いリビング、子供部屋にささやかながら書斎まである贅沢な間取りの家に、明良は一人で住んでいた。

 2番を歌い終え、間奏からCパートに入った時、ちょうど家の前に辿り着いた。
 門を開けようとしたその時、不意に頭に強い衝撃を感じて、明良はよろめいた。
 足がもつれて、横倒しに家の前の道路に手を突く。
 痛いと感じるより、後頭部からじんじんと頭が痺れて、脳みそ全体が脈動しているような感覚がする。

(……何が、)

 思わず見上げれば、グラグラする視界に棒のようなものを振りかぶった人影が大写しになる。
 自宅前の常夜灯の明かりに照らされて、若い男の顔が見えて――次の瞬間、意識は暗転した。