箱の中 - 1/3

 男はいつも、柔らかく弾力のある床の上で目を覚ます。
 両目を覆う目隠しを透かして、白い光が部屋に満ちているのを感じる。
 不自然なほどの静寂。己の荒い呼吸音しか聞こえない。

 違和感から最初に気付くのは、顎から鼻にかけてを覆い、口を固く閉ざして開かせないマスクの存在。
 次いで、全身を締め付ける、硬い布の感触。
 両腕を体の前で交差し、自分を抱くような形で拘束されているので、身を起こすどころか、手を動かすことすらままならない。
 身体を丸めた胎児の姿勢で、芋虫のように床に転がっている自分を強く意識する。

 そこでようやく、悍ましい夢から抜け出せたことを知る。
 いや。
 アレこそが現実で、こちらが夢なのかも知れない。
 だが、どちらにしてもこれが一時の猶予に過ぎないことは、よく知っていた。

 正気でいられる僅かな時間。
 それはむしろ呪いに近い。
 現に今、解放された安堵よりも、いつまた始まるか分からないアレが訪れる恐怖の方を強く感じていた。

 膚の上からは、忌まわしい感触は綺麗さっぱりと拭い去られている。まるで最初からそんな事実などなかったかのように。
 夢であったとしてももう少し、余韻なり何なりが残っていてもよい筈なのに。
 それがまた、焦燥を駆り立て、恐怖を煽る。
 自分が果たして正気なのか、確信が持てなくなる瞬間。

 彼は、自分の現在居る場所を「箱」と感じていた。
 四角い箱の中に封じ込められた自分。
 虫籠の昆虫か、標本箱の中の珍奇な収集物。

 いつかまだ目隠しをされていなかった頃に見ていたと思しい周囲の様子は、目の裏にくっきりと思い描ける。
 真っ白い清潔な部屋。
 詰め物がたっぷりの分厚い壁に、調度は何もない。
 窓もなく、天井の発光パネルの光だけが、しらじらと内部を照らす。

 いつからここにいるのか、何故ここにいるのか。その記憶は、無限とも思える時間の彼方に消えて、欠片さえ無くすっぽりと抜け落ちている。
 それどころか、名前も年齢も、かつて自分が何者であったのか、どんな姿だったのかですら思い出せない。

 唯一確かなのは、ここにいる限りアレから逃げられないし、アレから逃げる術を全て失われている以上、アレに襲われ続けるということだ。
 もはや記憶にないが、この厳重な拘束は逃亡を防ぐ目的以外にも自傷させないためでもあるのだろう。
 手足が、口が自由になるのなら、今も自殺を試みるだろうと彼には確信できた。
 アレから逃れるために。

 自分はアレに与える生贄としてここに留め置かれているのだろうか?
 全世界から見捨てられて、閉じ込められたのか。
 封じられた視界の外は、かつての記憶のままの白い箱の中なのだろうか。
 それとも。

 

 カタリと小さな物音がした。
 ハッと顔を上げた。懸命に首をねじ曲げて、音のした方向へ振り向ける。
 扉が開いたのか。誰かが覗いているのか。
 男は、くぐもった叫びを上げ、芋虫のように身体をのたうたせて、いるかどうかも分からぬ相手に向かって必死に訴えた。
 ここから出してくれ。せめて、この戒めを解いてくれ。
 無駄であるのは重々承知していた。数えきれないほど繰り返して都度無視されてきた。
 そもそも閉じ込めた者達の一員なら、自由にしてくれる筈もない。
 だがそれでも、叫ばずにはいられなかった。

 誰かが、何かがすぐ傍にいる気配を感じた。
 這い寄ろうとした矢先、不意にその何ものかがマスクに触れた。
 顎の部分の拘束が緩み、隙間から吸口が差し込まれる。
 唇に当たるそれは、ゴム製の乳首のようなやわらかい感触。圧を受けた先端は、中から滲み出た液体で微かに濡れていた。

 食餌だ。
 そう分かると現金なもので、腹がくうと鳴った。前回の食餌から、随分と時間が経っていた。
 空腹を意識すれば、唇を湿した液体の、仄かな味わいが無性に気になって仕方がない。
 食餌に正気を失わせ、アレを招き寄せる薬物が混ぜられているのかも知れないという疑念は常に感じていた。
 だが、男はいつも、躊躇いつつも最後にはそれを口にする。

 おずおずと吸口を咥え、吸った。
 途端にとろみを帯びた液体が流れ込み、口の中にじわりと甘味が広がる。飲み下すと、滑らかに喉を滑り落ちて、胃の腑にしみ渡る。ほんのりと腹の底があたたかくなった。
 男は喉を上下させ、夢中で飲んだ。空腹が癒されると同時、体に活力が満ちる。
 記憶にある限りずっと、彼はこの蜜に似た食餌を与えられてきた。慣れ親しんだ味だが、一度も飽きたことはない。

 与えられた分量を全て飲み干し、満腹感を覚えた男は、ほっと息を吐いた。
 吸口が口の中から引き抜かれた。
 すぐさまマスクの顎の部分が締まり、無情にも再び口は閉ざされた。
 失望と怒りの声が、マスクの奥から上がった。

 部屋を出て行った様子も物音もしないのに、近くにあった気配が消えていた。
 男は呻き、頭を床に二度三度と打ち付けた。弾力のある床は衝撃を受け止めて、怪我などは一切ないが、男の振る舞いはそれを意識してのものではなかった。
 声を取り上げられた男はのたうち回り、体全体を使って叫んだ。

 男はやがて、顔を伏せ、啜り泣いた。
 舌の上に、僅かな苦味が後味となって残っていた。
 飲んでいる間は一切感じないのに、食餌を終えた後にはいつも。
 それが彼の心を、一層絶望へと駆り立てるのだった。