残照 - 3/3

 どのくらい時間が経ったのだろう。
 気が付いたら、すっかり日が陰って、薄暗かった。
 髭面の男の顔が、仰向いたアイの顔のすぐ側にあった。その男の肩の上に自分の足が乗っていて、男が激しく腰を振りたくるたびに、ゆらゆらと足先が揺れた。
 濡れたものを捏ね回す、派手な水音が耳を打った。殆ど感覚の無くなった尻穴を、男根が忙しなく出入りしているのだった。

 男はアイの視線に気付くと、ニヤリと笑った。
 そして、細い喉首に手をかけて、ゆっくりと締め始めた。
 ぐえ、とアイの喉が鳴った。
「まーたコイツの悪い癖が出た。また殺る気かよ」
「水や食いもんの在り処、聞き出さなくていいのか?」
 仲間たちは呆れたように問うたが、行為そのものを止める気配は全くない。
「別にいいだろ。もうコイツ終わりにしようぜぇ。最後のな、締め付けがな……」
 髭男はニヤニヤしながら、じりじりと力を込めて扼していく。その間も、内臓を穿つ腰の動きは止まることはなかった。

 アイは、鉛が詰まったように重い腕を懸命に持ち上げ、力の入らない指で男の手を外そうと、必死に喉のあたりを掻く。空気を求めて、舌を突き出して喘いだ。
「うぉっ……なか、うねって……イイっ……!」
 口の端から涎を垂らし、男が恍惚と呟いた。
「すぐに弟のとこへ、送ってやっから、よおっ……!」
 窒息の苦痛を上回る、衝動に突き動かされ、アイはちらりと視線を横に走らせた。
 傍らに静かに横たわる弟の姿が目に入った瞬間、アイの髪の毛がざわりと逆立った。
 眼球が零れそうなくらいに目を見開き、『それ』を見つめた。

 アイに良く似たあどけない顔は、青黒く変色して、見る影もなく膨れ上がっていた。だらりと口からはみ出た舌、飛び出した眼球。
 首には、手の形に鬱血の痕が浮いていた。
 何が起きたのかは一目瞭然だった。

 声なんか出ない筈の喉奥から、低い憤怒の唸り声が迸った。
 火を噴く眼差しで、髭男を睨みつける。弟の仇、と瞳が告げていた。
 男の肩の上で足をバタつかせ、力いっぱいもがく。首を掴む男の手を引き剥がそうと、自分の首が傷つくのも構わず、掻き毟った。

 だが、それが限界だった。
 酸欠に視界が次第に眩みゆく。指から力が抜け、ずるりと手が落ちた。
 苦しい、憎い、としか考えられなくなっていく。
 顔面が内側から膨れるように脈打つのを感じ。
 そして、意識が薄暮の中に沈んだ。

 

 その時だった。
 風を切る唸り、髭面の男の頭を、ウィリアム・テルの林檎のように、矢が貫通した。
 男はニヤニヤ笑いを顔に貼り付けたまま、何か言いたげに唇を動かし、ばったり倒れた。
 仰天した仲間が、弩弓の射撃と気付いて身構えるより先に、弩の矢が次々に飛来してきた。
 降り注ぐ矢の雨に打たれ、凶徒たちはバタバタと倒れていった。

 アイは咳き込みながら、髭男の躯を押し退け、身を起こした。
 萎えた男根がずるりとからだから抜け、腫れて開いたままの肛孔が、濁った水音を立てて精液を吐き出す。
 骸のように重い身体を引き摺って肘で這い、横たわる弟のもとに向かう。

 弟は扼殺されただけではなかった。
 腹が裂かれ、腸が引き摺り出されていた。生きているうちにか、死んだ後か。面白半分にやったのだろう。
 凌辱の痕も凄まじく、アイと同じように全身を穢し抜かれたのは間違いない。打撲と擦過傷で肌が斑模様になっていた。

「……ぅ……ぐ」
 アイは俯き、額を地面に擦り付けた。
 潰れた喉から、声にならぬ掠れた嗚咽が洩れる。
 涙が止まらなかった。

 

 やがて周囲の廃墟から、わらわらと武装して弓を構えた一団が現れた。
 競技用と思しいクロスボウ以外には、スレッジハンマーに棘を植えたバットなどの種々雑多な武器に、ミリタリールックや、普段着にスポーツ用の防具を着けた者。小柄なものも何人かいる。
 彼らは、まだ息のある凶徒を見つけると、とどめを刺していった。
 ついでに、まだ使えそうな武器や衣服、物品を探して、手際よく剥いでいく。
 一連の行動は、とても連携が取れていて、彼らが手馴れていることを示していた。

「おいお前」
 中の一人が、弟の骸の前で泣き伏すアイに声をかけた。
 頭に巻きつけた迷彩柄の布の下から、涼し気な双眸が覗いていた。
 アイは顔を上げ、ぼんやりと泣き濡れた瞳で、相手を見上げた。
 山刀を片手に近寄ってきたのは、少年期をようやく脱したばかりの、若い男だった。

「生きてるみたいだな。奴らに捕まってたのか」 
 淡々とした声、淡々とした顔つき。黒曜石に似た黒い瞳には何の濁りもなく、感情の色もない。
「俺のところで手当てしてやる。一緒に来い」
 無造作に髭男の屍を踏み越えて、アイの腕をとった。
 アイの身体がビクリと震えた。
 さっきまで凶徒に輪姦され、殺されかけていた肉体には、恐怖と苦痛が叩き込まれている。男の手に掴まれる感触は、恐怖以外の何物でもなかった。

 縮こまる痣だらけの細い裸身を、青年は僅かに頭を傾けてじっと見つめる。
「どうやら歩けなさそうだな。仕方がない。連れてってやる」
 竦むのも構わず、軽々と抱き上げた。アイが恐慌をきたしてもがくのも無視して、仲間のいる方へ歩いて行く。

「……!……!!」
 ユウがまだ残っている、とアイは無音の叫びを上げた。傷んだ喉は、擦過音を吐く。青年の腕の中から、ユウの骸に向かって懸命に手を伸ばした。
 青年はちらりと肩越しに振り返った。
「お前の兄弟か」
 アイはこくりと頷いた。両親に死に別れて後は、たった二人の兄弟だった。
 青年は見つめる視線を逸らさず、まっすぐ無情に告げた。
「諦めろ。今は埋めている暇はない」
 夜が迫っていた。闇の帳が降りた後は、また違う捕食者の出没する時刻だ。

 少し先に、青年の仲間たちが佇んで待っていた。
 煤や砂埃や、血飛沫で汚れた若い顔が、こちらを向いて並んでいる。
 よくよく見てみれば、彼らも青年と変わらない年頃の、まだ若い少年少女たちだった。 
 アイは瞳を閉じた。
 涙は、もう出なかった。

 赤紫から藍にグラデーションする空を突いて、摩天楼は墓標と化してそそり立つ。
 西つ方にはひとかけらの残照が長いこと残っていたが、やがてはそれも夜闇に薄れて消えた。

 

– end –