帰宅して、玄関のドアノブを掴んで回す寸前、嶺也はいつも考える。
自分の家に入るのに、何でこんなに気力が必要になるんだ。
無意識に深呼吸、わずかな躊躇い。
「ただいま」
溜息を飲み込んで、声は平静に、顔は無表情に。
少しの間が空いて、靴を脱ぎ終えた頃にようやく間延びした返事が返ってきた。
「おかえりー」
リビングに入ると、敵は案の定スマートフォンでゲームの最中らしく、ソファに寝転んで、こちらも見ないで熱心に画面を覗き込んでいた。
嶺也は少し安堵し、鞄を置きにコート掛けのある一角に向かう。
上着を脱いでハンガーにかけたところで、背後からのんびりとした声がかかった。
「遅かったねえ」
「仕事忙しくてな。暫く残業になるって言ったろ」
嘘はつるりと淀みなく口を滑り出た。ネクタイを緩める手も遅滞はない。
だが。
「レイちゃーん、嘘はいけないなあ」
低く揶揄する声。
心臓が躍った。
バレた。
「真鍋さんに聞いたら、プロジェクトが終わって一段落して、結構手が空いてるって言ってたよー。レイちゃん、やんなくてもいい他の部署の子の仕事を、わざわざ手伝ってるんだって?」
振り向くと、敵――孝一は、ソファに胡座をかいて座り、こっちを見ていた。
子供っぽい、呑気そうな顔だが、唇に浮かんだ薄笑いに、嶺也の背筋がそそけ立つ。
孝一が示したスマートフォンの画面には、メールアプリでの会話が映っていた。
真鍋はそこそこ親しくしている同僚で、家が近い関係で、以前は何度か帰りに一緒に食事したり飲みに行ったりしたこともあった。
何週間か前に近くのショッピングモールでばったり会った時に、孝一がしれっとした顔で居座るので仕方なく従兄弟と偽って紹介したが、どうやら気付かぬうちに親交を図っていたようだ。
まったく何て余計なことを仕出かしてくれたんだ、と事情を知らぬ同僚にそこはかとない殺意を抱きながら、渋々孝一に向き直る。
リビングには、重苦しい空気が充満していた。
ちょっとここ座って、と目の前の床を指し示され、仕方なく正座した。
「レイちゃんさ、俺のオナホの自覚ある?」
あるか、バカヤロウ、と喉元まで出かかった罵声を飲み込み、嶺也は俯いて唇を噛みしめる。
「俺、無理なこと言ってないよね? 仕事に支障が出ないように、平日は一回だけ。こってり時間かけて遊ぶのは週末だけで、日曜の夜は休ませてあげてるよねえ? こんなに優しいご主人サマいないよ?」
ありがたがれと言われても、その決まりは嶺也の意志を無視して勝手に孝一が決めたもので、嶺也自身は同意していない。
上から目線で説教をかましてくる孝一には、怒りしか感じない。
それなのに、恨みがましい視線で見上げることすら許されないのだ。
脅されているから。
弱みを握られているから。
社外秘の資料が入った鞄を、うっかり電車の中に置き忘れてしまったのが、事の始まりだった。
慌てて取りに戻ったが、既に網棚に鞄は無くなっていて、絶望で頭が真っ白になった。
上司に報告しない訳にはいかないが、すれば一大事に発展するのは間違いない。下手をしたら会社を辞めなければならなくなる。頭を抱えた。
そんな時だ。鞄を預かっています、と携帯にメールが来たのは。
手帳に落とした時用に連絡先のメアドを書いていたが、書類と一緒に鞄に入っていたそれを見て、連絡をくれたのだった。
途中駅で落ち合って、鞄を渡してもらい、無事に中に書類があるのを確認した時には、良い人に見つけてもらって俺は本当に運が良かった、と思ったものだ。
後できちんとした謝礼をすることにして、その場は礼だけ言って別れた。
それが、孝一との出会いだった。
まさかその後に脅迫されることになるとは、考えてもみなかった。
ほわんとした、人の良さそうな笑顔。
ラフな重ね着がよく似合う、自分と同い年くらいか、少し年下の青年。
だから、謝礼のためにもう一度会うのに抵抗はなかったし、なら飲みに行きませんかと誘われて、断るのも悪いなと思ってしまった。
生き地獄のはじまりになるとも知らずに。
孝一は、既に書類をコピーしていた。
入った居酒屋の個室で、社外持ち出し禁止の内規を破ったことを会社にバラすことも、流出先が嶺也とすぐに分かるようにネットにばら撒くこともできると仄めかされて。
一発ヤらせろという要求を、その場で拒否しなかったのが間違いだったのだろう。
だが、折角苦労して入った会社をクビになりたくなかった。
ホテルに連れ込まれて、身体をオモチャにされ、ハメ撮りされた。
連休中に家に居座られて、何日もぶっ続けで犯されただけでなく、その時の痴態の一部始終を撮影されてしまった。
自分に万一のことがあったら、画像を自動でネットに流出するようにしてあると言われて、嶺也はますます逆らえなくなってしまった。
緊縛されて犯されている間じゅう、凌辱もののビデオを繰り返し見せられた。
実録だというそれは、若い青年が監禁され、過酷な調教を受けて性奴隷にされる過程を撮影したもので、時々乱れる荒い画面や構図を意識しないアングル、生活感溢れる背景に作り物らしからぬリアリティを感じて、恐ろしかった。
巨根の男たちによる絶え間ない輪姦、フィストファック、獣姦。
画面の中で、青年は激しい恐怖と苦痛に顔を歪ませ、泣き叫んでいた。
それが終いには、自分からペニスをねだり、淫語を喚きながら蕩けきった顔で尻を振るほどに完璧に堕ちた。
あんなことをされるのだろうか。自分もああなってしまうのではないか。
怯える嶺也に、孝一は「逆らえばああなる」という鞭と「従えば無理はさせない」という飴を巧みに使い分けて、専用のオナホになるのを承諾させてしまった。
そのままなし崩しに同居を受け入れさせられ、毎日性欲処理をさせられている。