死者の日

 10月が終わるのを憂鬱に感じるようになってから、そろそろ2年が経つ。
 俺は、スエードのジャケットの襟の陰に首を埋めるようにして、夕暮れ時の街を歩いた。
 5時ともなればもう薄暗く、ひっそりと降り始めた夜気を、街灯と自動車のライトが追い立てていく。
 サン・ミゲル通りを渡って16区に入ると、通い慣れた道がすっかり様変わりしていた。
 まず目につくのが、マリーゴールドの花、花、花。
 花屋の店先に、菓子の屋台に、街角に作られた即席の祭壇に、家々の戸口の前に。大量に活けられ、敷き詰められ、街路を明るい黄色で埋め尽していた。
 冷えた大気にも、マリーゴールドの香りが満ちる。

 マリーゴールドは死者に捧げる花だ。
 ここらの地区は、10月31日はハロウィンというより、11月1日から始まる「死者の日」の前夜祭という色合いが強い。
 この時期、街は華やかな切り紙細工とマリーゴールドの黄色、そして骸骨の人形で溢れかえる。
 彼らは故郷から持ち寄った習慣のまま、故人を偲んで墓を花で飾り、通りに祭壇を設え、ドクロの砂糖菓子を供える。
 俺はシティ育ちでありながら、これらのことをルシオと知りあうまで知らなかった。
 初めて死者の日にここを訪れた時、ルシオは目を丸くする俺に笑いながら、自分が生まれ育った街の祝祭を案内してくれた。
 つややかな小麦色の頬、輝く黒曜石の瞳。
 不意に、あの時のルシオの輝きに満ちた姿が思い出されて、息苦しくなる。

 物思いに耽るうちに、いつの間にかルシオの住むアパートの前の小路に入っていた。
 これから仮装行列に出かけるのだろうか、それとも家に帰るのだろうか。手をつないで走っていく小さな魔女ふたりとすれ違った。
 アパートに入り際、ふと見れば隣の住居の前には、ギターを抱えた骸骨人形が、バルコニーに佇む純白ドレスの骸骨レディを見上げて、情熱的に掻き鳴らすギターの音色が聞こえてきそうな風情で立っていた。

 踏む度に軋んだ音を立てる年代物の階段を上り、2階へ向かう。
 暗く薄汚れた廊下を進んで、奥から三番目。そこがルシオの部屋。
 古臭い鍵を合鍵で開け、俺はドアノブに手を掛ける前に、二度三度深呼吸をした。
 思い切って扉を開けて、暗い室内に目を凝らす。
 果たしてルシオは、先週俺が帰宅間際に見た姿そのままに、窓辺に座って外を眺めていた。
 ひとつ息を吐き、外を向いたままのルシオに声をかける。
「ルシオ。来たよ」
 だが、繊細な横顔も肩の線も、小ゆるぎすらしない。
 俺は、不安と安堵をこもごもに感じ、ゆっくりと部屋の中に入る。

 

 2年前、一緒に住んでいた幼馴染のフアンが死んでから、ルシオは笑顔を見せなくなった。
 ルシオにとって、フアンは単なる幼馴染以上の存在だったと、葬儀の席で狂乱し泣き崩れるルシオを見て初めて知った。
 いや。本当は気付いていた。
 ルシオの瞳は、フアンを見つめる時、生まれたての若い星のようにまばゆく輝いた。
 マリアッチだったフアンが爪弾くギターの音色を、一番愛したのもルシオだった。
 幼馴染の陽気な悪戯や失敗の顛末を語る時、どれほど甘く優しい声音であったろう。
 可哀想なルシオ。
 フアンはお前の美しさと純愛に、見向きもしなかった。
 彼の歌とまごころは、常に愛らしいセニョリータたちに捧げられ――遂にそのひとりと、11月の明け方のハイウェイで、玉突き事故に巻き込まれて人生を終えた。

「ルシオ――お前の好物のチーズ入りのエンチラーダを買ってきた。後で食べよう」
 料理屋の保温パックを掲げて見せて、キッチンに向かった。
 冷蔵庫を開けると、案の定、先週置いていった食材には、手を付けた形跡がなかった。
 新しく買ってきた食材と入れ替え、傷んだものをディスポーザーに捨てた。これもまた毎週の、決まりきった動作。
 俺がいない間ルシオはどうしているのだろう。窓辺に佇んでじっとしたまま、何も食べていないのではないか。

 買ってきた惣菜を皿に盛り、炭酸水の瓶とともに、テーブルに並べた。
 少しでも目に快く映ればと、グラスに活けた花も置いた。
「ルシオ。食事にしよう」
 一声かけてから、ルシオの手を取り、食卓に導く。
 ルシオは、促されるまま従順に椅子に座った。
「食べなさい、ルシオ」
 席についた俺が命じて始めて、ルシオはカテラリーを取り、料理を口に運ぶ。言われなければ、ぼうっと座ったままだろう。
 その後は、いつもいつも沈黙のうちに食事が進む。
 俺が様子を窺いつつ料理を平らげるあいだに、ルシオはわずかにフォークを動かし、二口三口、口をつけたのみ。
 それでも、いくらか食べるようになっただけ、ましになった。
 以前は、全く何もとろうとはしなかったのだから。

 

 ルシオを壊してしまったのは、この俺だ。

 ルシオは、フアンを失った悲しみから、いつまでも立ち直れなかった。
 悲嘆に暮れ、まともに生活できなくなったルシオを、俺は支え続けた。
 拒食気味になったルシオのために食事を運び、毎日のように通い続けた。蓄えが底をついてからは、家賃も代わりに払った。
 ルシオが、フアンの思い出の残るこの部屋を出ることを嫌がったからだ。

 フアンがいない今、ルシオは俺を愛してくれるのではないか――そんな邪な心がなかったかと言えば嘘になる。
 いや。
 結論から言えば邪心は、常にあったのだ。

 一年近く経って、ようやくルシオは身の回りのことを自分でできるようになり、ほんのりと笑顔らしきものを見せ始めたのに。
 俺は先走ってしまった。
 フアンが死んで初めての死者の日に、奴を偲んで花と菓子を買い、窓辺にろうそくを灯した。
 フアンを死者として祀ることで、ようやく奴の死を受け入れ、生者の世界に戻ろうとしてくれるのではないかと――そう期待したのだ。
 俺はフアンを忘れさせたかったのだ。
 忘れる、と言って欲しかったのだ。
 だが、そうはならず、ルシオは死霊であっても、フアンが自分のもとに立ち戻ってくれることを望み、死者とともに生きようとした。
 ランタンの灯の連なる夜の町並みを眺めるルシオの顔に、ステージの下からフアンを見上げていたと同じ表情が浮かぶのを認め。
 感謝を口にしても、俺の捧げる愛を受け取ろうとしないばかりか、無為となさしめたルシオに激昂した俺は。

 ルシオを犯した。
 フアンの思い出の残るこの部屋で。死者が使っていたベッドで。

 元々細身のルシオの身体は、長い間外出しなかったせいで筋肉が細り、体重をかけて押さえ込めば、容易く抵抗をねじ伏せることができた。
 フアンに、死人に助けを求めるルシオの叫び声を聞きたくなくて。
 俺は手近にあった布をルシオの口に突っ込み、猿轡をかませた。
 そうして、憤怒と満たされぬ愛慾の赴くまま、ルシオを犯し――
 俺から逃れようと身を捩り、顔を背けるたび、罰を与えんがために、執拗に蹂躙し――
 二日二晩のあいだ、繰り返し繰り返し、何度も何度も、俺の存在をルシオのからだに刻み続けて。
 すべてが終わった時には、ルシオの心はこなごなに砕けて、ただの抜け殻になっていた。

 

 食器を片付け、食べ残した料理を冷蔵庫に入れてから、俺は居間に戻った。
 いつの間に席を立ったのか、ルシオは窓辺に戻っていた。
 窓際に置かれた椅子に座り、ぼんやりと外を眺めている。
 色紙の飾りのついたランタンが照らす街路は明るく、歌声と楽の音が夜を渡って聞こえてきた。
 俺は吸い寄せられるように彼の足元に跪く。
 手を取り、骨ばった甲に優しく口接ける。
「ルシオ――ルシオ」
 痩せた手首に、丸みを帯びて出っ張った関節に、前腕のやわらかい内側の皮膚に、唇を這わせ。
 俺はいつも罪悪感に打ちひしがれながら、最後には悪魔に屈してしまう。

「ルシオ――ルシオ。俺を見てくれ」
 あの夜の悪夢をなぞるように俺は、ルシオを死者の寝台に横たえ、色褪せた褐色の膚を暴く。
 悪夢の記憶を塗り替えるように、恭しい手つきで一枚一枚衣服を取り去り、痩せたからだに優しい愛撫を施す。
 ルシオはもう逆らわない。
 と言うより、何をしようと反応を示さない。
 涙を流すことも、震えながら頬を紅潮させることもない。
 されるがままに、膚を曝し、からだを開くだけだ。
 舌と指が掘り起こした官能のさなかにあってさえ、抱き締めた身体は、死びとのようにひいやりと冷たく、乾いている。
 内側だけが、あの日と同じく熱い。
「もうフアンを忘れろとは言わない。俺を憎んでくれていい。だから――」
 ぬくいはらわたの海に己を沈め、懸命に俺はルシオの内側をノックする。
 こうしてからだを繋げて、波を起こし、揺さぶり続ければ、深奥に閉じ籠もってしまったルシオにいつか届きはしないかと。
「戻ってきてくれ……」
 虚ろに見上げる黒玉の瞳に耐え切れず、頭を腕の中に掻い込んで、視線を遮った。
 不意に涙がこみ上げて、随分と長く伸びてしまった黒絹糸の髪の上に、滴を零してしまった。

 自分を偽るのはやめよう。
 俺はただ慰めが欲しいだけ。心が得られないのなら、せめて肉体だけでも己のものにしたいだけだ。
 結局のところ、俺は、自分がレイプして廃人にした片恋の相手を、誰にも気付かれないのをいいことに、犯し続けている外道だ。
 魂のない人形を、俺は抱く。

 

 玄関のブザーが鳴っている。と気付いた。
 ほろ温くなった身体を腕の中に収めて、温かいシーツに包まっているのが心地良かったのに、目が覚めてしまった。
 まどろみを続けようと最初は無視したが、絞め殺される鶏みたいなけたたましい騒音は、いつまでも止まない。
 俺は諦めて起き上がり、衣服を身につけた。
 時刻はもう昼過ぎだった。
 固く目をつぶって横たわるルシオに毛布を掛けてやり、寝室を出た。

 玄関扉の、骨董品のドアスコープから覗くと、外にはふたりの男女が所在なげに立っているのが見えた。
「ロベルタ。アキラ……」
 ふたりは友人だった。特にロベルタはルシオの昔からの友達でもあり、最初彼女の紹介でルシオと出会ったのだ。
 どうしてふたりがここに、と問うより先、俺の呟きを聞きつけたらしく、アキラが声をかけてきた。
「そこにいるんだろ。開けてくれ!」
「待ってくれ。今開ける」
 その急いた声音に、どことなく不穏なものを感じながら、俺は鍵を外し、扉を開けた。

「よく俺がここにいるって分かったな」
 ここはルシオの部屋である以上、ルシオの友達のロベルタを入れない訳にはいかない。
 俺はふたりを居間に案内し、努めて平静を装いながら、寝室にいるルシオのことを考えていた。
「お前がまだ毎週ここに来てるらしいって、ロベルタから聞いたんで」
 ぽつりと、アキラが険しい顔で答えた。
 ロベルタは不安そうにあたりを見回していた。

 ああ、と俺は合点した。
 ロベルタの実家も16区なのだ。移民たちは、同胞同士、結びつきが強い。足繁く通う俺のことが、街の噂になっていても、おかしくはない。

「ここの家賃もお前が払ってるんだってな」
 ふたりは俺の勧めた椅子には座らず、コーヒーを用意しにキッチンに行こうとする俺を遮った。
「ルシオがこのままここに住みたいっていうから」
「なあ、もういいだろう? ここもいつまでもこのままって訳にはいかないだろう。そろそろお前自身が未来を考えないと」

 ルシオの異変を俺は、フアンの後を追って自殺を図った所為――と偽った。
 俺が目を離した僅かな隙に、薬を飲んだ。
 そう説明した方が、罪悪感の所在を誤魔化しやすかったからだ。
 そうやって俺は、ルシオをこの部屋に閉じ込めて飼う、大義名分を作った。

「俺のことは放っておいてくれ。好きでやっているんだよ」
 肩を掴もうとする手を振り払い、俺はアキラから距離をとった。
 それでも彼は引き下がらなかった。
「そうはいかない。お前にとってショックだったのは分かるし、責任を感じてもいるんだろうが、お前自身の人生もあるんだ」
 俺を気遣う彼の気持ちに偽りはないのだろう。これほど真剣に心配してくれる友達は、本来なら有難がらねばいけないところだ。

 俺は、罪業を秘匿する罪人として、後ろめたさを隠して言い訳をする。
「ルシオはひとりで生活できない。彼を放っておけというのか?」
 ふたりは奇妙な顔つきでじっと俺を見つめた。
 酷く困惑したような、憐れむような。
 短い沈黙の後に、ロベルタがおずおずと口を開いた。

「ねえ、ルシオが死んでもう一年になるのよ?」

 そんなバカな。
 そんな筈はなかった。
 昨晩俺はルシオに会い、ルシオを抱いた。
 今も寝室のベッドの中にいるはずだ。

 俺はよほど驚いた顔をしたのだろうか。
 アキラの顔が、何かを悟った、悲痛な表情に変わった
「ルシオは、去年の秋に――」

 

 アキラの声が酷く遠い。
 低く歪んで、もう俺には聞き取れない。
 窓から吹き込んだ風に、どこから迷い込んだのか、マリーゴールドの花びらが舞って、古びた木床に黄色の道筋を作る。きつい花の香が漂う。
 声だけが消えた世界で、サイレント映画のように、アキラとロベルタの唇が動く。
 彼らの背後で、わずかに開いた寝室のドアが、キィと小さく音を立てた。

 

– end –