ミシェール - 2/2

 宴の間をあるじは逍遙した。
 中世の城を思わせる作りの広間はとても広大で、靄の彼方にうっすらと壁が見えるのに、何故か歩いても歩いても端に辿り着かない。
 僕は覚束ない足で、何とかあるじの後をついて行った。高ぶりが鎮まらず、頭がぼんやりする。
 だけど、ふらついたり、遅れたりしたら、酷い罰が待っている。あるじの望む隷しもべらしく、できるだけ毅然として、胸を張るしかない。

 僕は今更ながらに自分の姿を意識する。
 薄く透けて見える衣は、体の線を一切隠さない。先走りで濡れそぼった紗が貼りついて、張り詰めた肉欲の形がはっきりと見える。くっきり浮き出た胸の尖りは、ドレープがさらさらと膚を撫でるたび、痛いほど疼く。
 僕はそれを隠すことも、自分を慰めることも許されていない。
 餌食の人間があふれかえっているここでは、そんなのは別段珍しくも何ともないのだろうけれど。

 

 人間同士を檻に入れて闘わせる賭博場とか、グロテスクに身体改造された人間を見せびらかす見世物とか。そんなものを幾つか通り過ぎた頃。
 あるじは、何かの舞台が設えられた一角に向かって進んでいった。
 まだ設営が終わってないらしく、何人かの小柄な魔物が忙しく立ち働いている。
 舞台の周りには椅子が並べられていて、舞台上が一番よく見える場所には、一際豪奢な席が幾つか用意されていた。

 その頃には僕も、少しはものを考える余裕が戻ってきていた。
 見ると、舞台脇に大きな鳥籠が運ばれてくるところだった。
 中に誰か入っているようだ。底に寝そべっているらしい、褐色の肌がちらりと見えた。
 いけない。周りを観察しているのを気付かれたら、また気を逸らしたと叱られる。
 幸いにもあるじがそれに気付いた様子はない。あるじは先に観覧席に座っていた、目の覚めるような美青年――殆ど人間に見えるから、吸血鬼だろうか――に近付いていった。

 貴族的な美々しい儀礼の挨拶を交わし、和やかに会話を始めるあるじの後ろに、目を伏せて控えた。
 話はほぼ、美青年の近況報告のようだった。
 あるじの側に控える時、僕はあるじの要求にすぐに対処できるように耳は澄ましておくけれど、詳しい内容は聞き流すようにしている。しもべが知るべきでない事柄を覚えていても、碌なことはない。
 二人の会話が訳の分からない悪魔?の話題に及んだ時点で、僕は話の中身を頭から閉め出し、あるじたちの様子を観察するだけに切り替えた。

 人間離れした美貌の青年は、首の中程で切り揃えた銀髪を揺らし、音楽的なテノールで話す。桜色の唇の間からチラチラと除く牙が、やっぱり彼も人外であるということを示していた。
 陽気で良いひとそうに見えたけど、こんなところにいる時点で見かけ通りでないことは明らかだ。
 あるじはと言えば、先方の従者から給仕してもらった絞りたての新鮮な血液の杯を手に談笑している。本格的にここに居座るつもりのようだ。

 あるじには何も考えずにいろと言われたけど、それでも僕は考えずにいられなかった。
 あるじは他人の苦痛を何よりの快楽と感じるサディストだけれど、単純な暴力は好まない。ここで繰り広げられているような、野放図な野蛮さはあるじの趣味からはかけ離れている。
 ――彼と会うことが目的だったのだろうか?
 では何故、あるじはこの宴に僕を連れてきたのだろう?

 ふと気が付くと、即席の舞台の上では、口上を述べていた。演し物が始まっていたようだ。
 よく聞き取れないが、鳥籠に入れられた人間――若い男のようだけれど――が主役のようだ。いつの間にか増えた見物客が、どよめきを洩らすのが聞こえた。
 あるじに咎められないよう、目を伏せているので、あまりよく見えない。どうせ、胸の悪くなるような悪趣味な見世物だろうけれど。

「……それに、このミシェールも加えてくれないか」
 不意に自分の名が会話に出てきて、ハッと目を上げた。今、あるじは何を話していた?
「君のしもべを? いいのかい?」
 それは相手にとっても驚く申し出だったようで、美青年が軽く目を見開いて問い返す。
「勿論。存分に使ってくれて構わんよ」
 あるじが芝居じみた仕草で鷹揚に頷けば、青年はまだ少し意外そうに首を傾げながらも、ニコリと微笑む。
「そうかい。じゃあ」
 彼が背後の従僕に目配せすると、一礼した従僕は音もなく離れ、何処かへ消えた。
 胸騒ぎがする。いったい何が、どうなってる? あるじは僕に何をさせるつもりなんだ?

 戻ってきた従僕は、直立した蜥蜴みたいな魔物を背後に従えていた。
 従僕が僕を指さすと、蜥蜴魔人たちは無遠慮に僕に近付いてきて、腕を掴もうとする。背筋が一気に粟立つ。
「なっ……僕に触れるなっ、離せ!!」
 咄嗟に避けようとしたが、彼らはとても敏捷で、果たせなかった。懸命に身を捩って、ひんやりする腕を振り解こうと暴れる。
「あるじっ、お助け下さい、あるじっ!!」
 僕は叫ぶ。
 けれど、あるじは蜥蜴たちを咎めるどころか、落ち着き払った顔で見ている。己の所有物に不作法に手を掛けられているのに、一向に動こうとしない。

「何故っ、あるじ、どうして」
 僕の必死の問いかけに、あるじが答える前に、青年が口を開いた。
「君はねえ、ちょっとしたショウに出演することに決まったんだよ」
 朗らかに笑い、大仰に腕を広げる。見るものへの視覚効果を重視した、大げさな演出は、あるじによく似ていた。
 疑念でいっぱいの僕に向かって、美しい青年の姿をした魔物はたたみかける。
「心配しなくていいよ。《乱鴉の大公》の持ちものに、むやみに傷をつけるような真似はしないからね。ただちょっと、うん、ほんとうにちょっとの間、用意した獣魔のお相手をしてくれればいいんだ」
 今度こそ驚愕で声も出なくなった。ギョッとしてあるじを凝視するけど、泰然とした表情は何も変わらない。
 それどころか。
 よく響く、綺麗なバリトンが僕の耳を打った。
「ミシェールよ。彼の言った通りだ。お前は彼らに従って舞台に上がり、皆の目を楽しませるのだ」

 あるじはとても独占欲が強い。
 身の回りの世話をする召使いにだって、自分の目の届かないところでは絶対に僕に触れさせない。
 あるじの家臣に話しかけられたので答えたら、「自分の許可無く口をきいた」と折檻された。他所の吸血鬼貴族が城にやってきた時には、ほんの少し顔を見ていただけで「見蕩れていた」と危うく責め殺されそうになった。さっきだって、ちょっと考え事をしていただけなのに、あんなに怒っていたじゃないか。
 そのあるじが僕を他人の手に委ねる……?
 あり得ない。
 そのあり得ないことを、あるじはしようとしている。

「……あるじっ」
 僕は叫んだ。
 また不服従の罪で折檻されると分かっていても、そうせずにいられなかった。
 何か、途轍もなく恐ろしいことが起きている。
 手を振り払って跪き、必死に黒衣の裾に縋る。
「何故、何故ですか。僕はずっとあなたの仰るとおりにしてきました。あなたの望むとおりにしたのに」
 涙は自然に溢れてきた。
 見上げるあるじの顔はいつになく平静で、何の感情もそこには見えない。
「お願いです、僕をあそこへやらないで」
 みっともなく声が震える。怖い。怖くて堪らない。
 僕はあるじの衣を両手で掴んで、あられもなく泣きじゃくった。

 その手にそっとあるじの指が触れた。僕は泣き濡れた顔を上げた。
 全く力を入れているように見えないのに、無情にもあるじの手は僕の指を衣から引き剥がす。
 あるじの唇に浮かんだ微笑の、何と優しげに見えることか!
 僕は愕然と見入るしかなかった。
「行くのだ、ミシェール。これは命令だ」
 鮮やかに裾を捌いて僕から遠ざけると、正面に立ち改めて僕を見下ろす。
 語調も眼差しも厳格そのもので、情の入り込む余地などまるでない。
 目尻が裂けそうなほど見開いた僕の目の前で、あるじが軽く手を振って身振りした。
 背後から両腕を掴まれた。そのまま乱暴に立たされる。
「あるじっ」
 舞台に向かって引き摺られて行きながら、僕は叫んだ。
 足をばたつかせ、振り切ろうともがく。
「いやだっ、あるじっ、あるじっ!!」

 視界から、あるじの他の全てが消えた。あるじしか見えない。
 懸命に手を伸ばしても届かない。どころか、遠ざかっていく。
 あの人は穏やかに談笑し、隣席の青年を見ている。僕なんて見やしない。
 やっと振り向いたあるじの、チラリと見やったその視線に過ぎった色を見た時に。
 僕は悟った。
 あのひとの目に浮かんでいたのは、僕を鞭打ち、切り裂き、痛めつける時と同じ。
 欲情、だった。

 何故。
 何もかも諦めて、あなたの言うとおりにしたじゃないか。あなたの望むとおりの、人形になったじゃないか。
 あれだけ僕を籠の鳥にしておきながら。
 あなたは、僕の苦しむ姿を見るためだけに、ここまでやるのか。
 僕の苦痛だけが、あなたの悦びなのか。
 僕はあなたにとって、つつき回して狙った反応を引き出したいだけの、玩具でしかないのか。

 僕の手足から、突然力が抜けてしまった。
 もう自分で立って、動くこともできない。
 涙さえ、止まってしまった。
 凍りついて動けない僕に残ったのは、恐怖、だけだった。
 ああ、その恐怖を何と名付けたらいいんだろう?

 舞台の上で、僕は青黒い肌の魔物に引き渡された。姿こそ人間に似ているが、容貌は粗野そのもので獣じみて醜い。
 僕は、逞しい巨体の股座に隆々と聳え立ったものを見てハッとする間もなく、両手首をひとまとめに掴まれて、吊り下げられた。
 腕と肩が痛いけど、それ以上に忙しなく上下する胸を意識する。とても息苦しい。
 急速によみがえってくる視界に、舞台下に集まった観客たちの姿が映る。
 皆、期待に満ちた眼差しで見ている。これから僕が、舞台の上で痛めつけられるのを、喜んで見物する腹なのだ。
 誰も助けてなんてくれないのは、もう散々あるじで学んでいる。
 絹を裂く甲高い音がして、あるじから与えられた衣が引き裂かれた。
 ベルベットの首輪を首に付けただけの全裸にさせられて、観客の魔物たちの目にさらされる。
 気が付いたら、全身が震えていた。止まっていた涙がまた流れ出した。

 大きなグローブのような掌で片脚を掴まれ、持ち上げられた。
 秘められた場所全部が暴かれて、萎えきった分身も、その後ろの陰密な穴も露わになる。魔物たちの視線が突き刺さる。
 あるじが、あるじだけが触れたその部分に、巨きくて湿った塊が突きつけられたのを感じて。
 熱い杭に下から貫かれながら、僕は絶叫した。