ミシェール - 1/2

 そこはとても恐ろしいところだった。
 あるじに吸血鬼たちの宮廷に連れて行かれたこともないではない。そこも、やっぱり恐ろしい場所だった。
 けれど、吸血鬼の宮廷というのは、結局のところ吸血鬼の貴族たちが見栄を戦わせる場所で、洗練されて技巧を尽くした残酷さを目も眩む美で飾り立てているだけで、本質的には人間の世界の権力者たちの政争と大して変わらないと思われた。
 ここにあるのは違う。
 もっと原始的で、生々しい恐怖だ。

 懸命に助けを呼ぶ金切り声が聞こえる。そこかしこで上がる、恐怖の絶叫、苦痛に満ちた呻き、快楽に溺れる喘ぎ。
 暗い広間にひしめく異形の魔物たちに、貪り食われ、拷問され、犯される、人間たちの声だ。
 さっと血がしぶき、肉片が飛び散る。
 助けを求めて伸ばされた細い手が、群がる魔物たちの群れの中に消えていく。
 それを、柱に鎖で繋がれた裸の娘が、虚ろな眼をして見ている。
 すぐ側で、円卓に乗せられた幼い少年が四つん這いで、角のある狼のような魔獣に背後から貫かれていた。

 呆然として身を強張らせる僕の身体を、満面の笑みを浮かべたあるじが撫で回す。
 サディストのあるじは、僕の恐れおののく顔を見られて気分が良いのか、それとも周囲に満ちる犠牲となった人間たちの苦痛の叫びに昂揚しているのか、上機嫌だ。
 けれど、いつそれが叱責と打擲に変わるか分からないのを、僕はよく知っている。
 怯えて縋れば、あるじは喜ぶのかも知れない。
 それとも、「私のしもべならば、毅然と背を伸ばして立て」と咎められるのか。
 選べない僕は表情を消して、あるじの為すがままを受け入れる。それはささやかな僕の意地、なのかも知れない。

 絶望を湛えていた瞳を、苦痛に歪む幼い顔を、頭から閉め出す。
 罪悪感が胸を刺すけれど、僕には何もできない。救える訳がない。僕だって、あるじに囚われて散々酷い目に遭ってきたけれど、誰も助けてなんかくれなかった。
 僕は心を石に変えて、じっとその場に立つ。
 こんな地獄みたいな場所で自分を守るには、石になるしかない。
 何も感じず、何も考えない。そうして、時が過ぎるのを待つ。

 あるじは僕の肩を抱き、歩くよう促した。
 懐に導き入れられて、壮麗な刺繍の施されたマントは、眼前の惨状と僕を隔てる壁となった。懸命に足を前後に動かし、魔物たちの間をあるじに従って進む。
 ざわざわする心を鎧って周囲を見回すと、人間たちの殆どは何も着けない全裸だった。残りは僅かな装飾品か、裸よりも扇情的な衣装を纏っている。
 身につけている装飾品は、僕のような首輪が多かった。それが、所有者が居ることを示すしるしだと気付いたのは、あるじの知り合いらしい魔物と行きあってからだ。

 魔道士のようなローブ姿に、頭が山羊の頭骨というのは、この広間に集まった魔物たちのなかではそれほど奇抜な姿ではないけれど、首輪をつけた幼い少女を曲げた肘の上に座らせているのには少し驚いた。
 あるじたちが社交辞令から入って軽い立ち話をしている間に、僕は不躾と咎められないようにこっそりと少女を観察した。

 花のように美しい子だった。半透明の花びらを沢山重ねた開きかけの蕾の形のドレスがよく似合う。あどけない顔をしているのに、大きく見開いた青い瞳は成熟した大人の女性の眼だった。反対にその目でひたと凝視されて、僕の方が閉口した。
 魔物が少女に接する態度は、愛猫家が自分の飼っている猫を可愛がるのと殆ど同じだった。ただの頭蓋骨にしか見えない顔に表情なんか殆ど無いのに、ニヤニヤとやに下がっているのが僕にも感じられた。
 そんなに大事なペットをこんな酷いところに連れてくるのは理解できないが、愛玩動物扱いとは言え、少なくとも主人に愛され、大切にされている。
 とうに諦めたはずの僕の胸に、針の突き刺さる小さな痛みを感じた。

 

 彼らと別れた後も、僕はずっと考えていた。
 あの子の今の状況が幸せかと言われたら、そうでないかも知れない。でもあの子はきっと、主人から鞭打たれたことなんか、一度もないに違いない。

 人間のしもべを物か家畜くらいにしか考えていない吸血鬼なんて、いくらでもいるのは分かってる。
 けれど、吸血鬼は元は人であった者が多いぶん、人間と恋仲になったり、花嫁や花婿として一族に加える例も多いことを、僕は知っている。
 そういうのを見せつけられるたび、何故、僕とあるじはそうでないんだろうと、鳩尾に重苦しい塊が蠢くのを感じて……

 僕は愕然とした。
 馬鹿な。僕はあるじに愛されたいと願っているというのか。そんなはずはない。
 このひとは僕から家族も友人も、ささやかな幸せも奪った怪物だ。人の心を持たない、怪物なんだ。

 突然、力強い腕が前に見回され、懐深く抱き取られた。
「――あの娘のことを考えているのかね?」
 深みのある低音の美声に耳元で囁かれ、ぞくりと背筋が粟立つ。
「随分と熱心に見つめていたな。そんなに気に入ったかね?」
 恐怖に棒立ちになった僕の耳孔に、悪意に満ちた笑声が吹き込まれる。
「そ、んな、違います……決して――決して!!」
 否定の言葉は殆ど反射だ。どうやったら折檻されずに済むのだろうとそればかりが頭をぐるぐる回る。身体が震えだしてきた。

 前動作なく、いきなりぐるっと身体の向きを変えられた。胸を合わせて向き合うように抱かれ、間近で覗き込んでくる。
 うっすらと笑みを浮かべたその美貌。蒼白い死びとの顔を縁取る、豪奢な漆黒の巻毛と、整えられた顎髭。
 でも何より僕を惹きつけて放さないのは、真っ黒なその瞳。闇より黒くて、闇よりも深く、おそろしい。
 魅入られた僕は、視線を外すことも出来ないまま、ただ震えて待つだけだ。

 尻肉のあわいに冷たい指が忍び込み、秘められた後ろの穴をまさぐる。
 魔力で作り出した蜜をまとい、閉ざされた入り口を押し開く。
 それだけでもう、僕は。
 口を閉じておくことができなくて、息を乱してしまう。はしたなく喘いでしまう。

「はぁっ、ああ……ぁあん……んんっ」
「お前には私以外の何かに心を動かす自由など、許していないのだがねえ」
 蜜まみれの筒の中でバラバラに指が動く。ぐちゅぐちゅと掻き乱される。けして恐怖ばかりでない震えに襲われ、僕はガクガクと腰を揺らす。
 僕のからだの隅々まで知り尽くした手が、的確に快楽の根源を叩く。

「ン、いッ、は、アあああぁあ」
「どうしてきちんと言いつけを守らない? 覚える気がないのか? それとも私に反抗しているのかな?」
 愉悦を含んだ、蜜のように豊かな低声。この声は、僕を甚振る時に最も甘く優しくなる。
 みっともなく勃ち上がった下腹のもので、万が一にもあるじの衣服を汚しちゃいけないと思うのに、頭がクラクラして。
 精一杯腰を引くけれど、それはあるじの手に自分の秘所を押しつけるのと何ら変わらない動きになってしまう。
 穿たれる。今や親指以外の全ての指が、僕の中で踊っている。犯し、蹂躙し、僕のからだを快楽で充たされるのを待つだけの空洞に変えてしまう。

「あるじっ、お、ゆるひ、くらさ、……ひッ、イひィ……いっ、いイいッ!!」
「お前が私の隷しもべとなって何年が経ったと思う、ミシェール。血を分け与えた隷であるにもかかわらず、不出来なお前には失望させられてばかりだ」
 掌がぐっと尻肉に押しつけられた。下から押し上げられ、息を呑んで僕は爪先立ちになる。眼裏に閃光が舞う。腿裏の筋肉が痙攣する。
 いく。いってしまう……!

 と、唐突に手が引き抜かれた。
 何が起きたのか、すぐには分からなかった。
 ぽっかりと開いた空洞。その奥で、ついさっきまで嬲られていた快楽の源がズキズキと脈打っている。
 あ、あ、と間抜けな喘ぎ声を上げて、あるじを縋った。足から力が抜けて、とても立っていられない。
 こんなおぞましいこと、厭で厭で堪らないのに。今すぐ貫いてメチャクチャにして欲しかった。

 けれど、あるじは静かに嗤うばかり。強引に僕の腕を解いて、また元通りに前を向かせる。肩に乗せられた手が重い。
「強情なお前は、私に逆らいたくて仕方が無いのだろう。折檻でさえ、淫らな悦びに変えてしまうのだから」
 その手が体の輪郭をなぞるように滑り落ちた。
 固くしこった胸の尖りに、爪が突き立てられる。下腹で張り詰めている肉の塊を、鷲掴みにされる。

 なのに、その鋭い痛みさえ、あるじによって躾けられた僕のからだは情欲に変換してしまう。
 息を呑んで硬直する僕を、形の良い大きな手が更に甚振る。こんな酷い仕打ちにも欲情していると、思い知らせるように。
 薄衣ごしに強く茎を握ったまま、親指の先で先端を抉る。先走りでじっとりと湿った紗で、敏感な部分を擦り立てられると、否が応でも膝がガクガクしてくる。

「寵が自分にあると、思い上がっているな? 不服従の罪を犯しても、罰を受ければ許してもらえると思って、私を侮っているのだ。いいだろう」
「……!……!!」
 僕は懸命に首を振って否定する。思い上がりだなんて。何度僕が泣いて謝って縋ったって、許してくれたためしなんてない癖に。
 寵愛を受けた覚えなんて、僕には一度も無い。少なくとも、あるじの城に連れて来られてから、愛された記憶なんて、ない。
 あるじはいつも自分勝手な理屈で邪推して、命令を守れていないと折檻する。

 思いと裏腹に、浅ましい肉体は勝手に絶頂に向かって昂ぶる。
 奥からぐっとせり上がってくるものを感じて。
 だけれどまた、あるじはそこで手を離してしまった。
 また。まただ。また、取り上げられた。
 何事も無かったかのように両手を引き揚げて、マントの下に隠す。
 あるじは、そうやって僕を。

 あるじは僕から離れて、歩き始めた。
 マントを揺らして振り返ると、薄笑いを浮かべて僕を見下ろす。
「歩きなさい。ミシェール。遅れることは許さない」